|
ブルージーな話〜「襟巻の暖かそうな黒坊主」愚禿親鸞
『親鸞と一休』 〜寺内大吉 親鸞の二百回忌に参じた禅僧の一休はこんな歌を詠んだという。 襟巻の暖かそうな黒坊主 此奴が法は天下一なり 臨済僧の一休が「天下一」と断じたのはいささか奇異なてざわりをうけなくもない。 しかし一休は 成仏は異国本朝もろともに 宗にはよらずこころにぞよる と喝破しているから、親鸞思想の核心をまともに把握していたと信頼してよい。 「歎異抄」はこんな文章も綴る。 「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ(候)。」 比叡山の堂僧だった親鸞は、東山にいる法然のもとへ走り、専修念仏へ帰入した。 以後は念仏ひとすじの信仰に徹しきるわけで、師法然へすべてをゆだねたわが身を表白した文章である。 絶対憑依を表白した文章としては修飾が誇大にすぎないであろうか。 親鸞は、よほど切迫した状況へ追い込まれていたのではあるまいか。 法然に欺かれて地獄におつるうんぬんとは何事であろうか。 ぼくらは建永2年(1207年)初頭における専修念仏弾圧の事件を想起せざるを得ないのである。 後鳥羽上皇の愛妃たちが専修念仏に魅かれて院の御所を脱走、法然の弟子だちとの密通を糾弾された事件である。 法然は四国へ親鸞も越後へ流罪となっている。 当時の歌人藤原定家の日記「明月記」によると、多数の念仏者たちが投獄され、拷問を受けた事実も明らかにしている。 逮捕、投獄、拷問・・・親鸞は獄中で数々の犯罪者を目撃し、彼らとも会話もかわしたであろう。 哀れな悪人たちの正体を知ったにちがいない。また拷問を受けながら親鸞自身迷ったであろう。国法を犯して 念仏を続けていいものかどうか。地獄へ直行するのではないだろうか。 鞭の嵐と内面に渦巻く煩悶 親鸞はこの切迫した状況のなかで、ある人物像だけを辛うじて見つめることが出来た。 師の法然の顔であった。たとえ地獄へおちてもあの師のあとをついてゆこう。 越後流刑に際し親鸞は藤井実彦などという名前をもらっている。縁もゆかりもない俗姓だった。 強い抵抗感をこめて彼は 「流罪以後、愚禿親鸞・・・・ 」と名乗ることにしたという 生涯に二度も自殺を試みたという一休宗純。彼の出自は、北朝の後小松帝が南朝の姫にうませた落胤だったと伝えられる。 激しく主権を争った南北朝。骨肉のいがみ合いが、そのまま一休の人生スタートであった。 暗い宿世の星は、親鸞の教説を一字一句に至るまで吸収しつくしたことであろう。 「襟巻の暖かそうな黒坊主」こそは一休の心の師でもあった。 四十歳ごろの一休は泉州の境にいて腰に木剣一本をぶちこんで蓬髪をふり乱して商都の街筋を徘徊してまわったという。 八十歳に近い晩年になって盲の女性森待者との愛慾に溺れていた。ようやく儲けた一子は死産だった。 -----血塊は嬰児なりき。 庭先に亡骸をうめている柴野大徳吉法主一休は、尽きることを知らない涙にむせんだ。 禅家にして禅僧に非ず。 ぼくは親鸞の正統な系譜をたどり得た僧こそ、一休宗純だったと信じている。 現代思想6 臨時創刊 (1985)より抜粋 |
|